緊縛写譚〜錯綜するアートとエロティシズム〜 写真:杉浦則夫 5・ 緊縛と芸術

芸術的フォルムの「S」の字一本吊り緊縛

杉浦則夫 緊縛
杉浦則夫 緊縛

胴体緊縛の後部から伸びる麻縄で、愛する女を一本吊りしたのち──乱れた裾を正(ただ)す要領で両膝を束縛する緊縛師M。
早苗の華奢(きゃしゃ)な身体が、かつてナチの親衛隊のシンボルであった「SS」の「S」の字に似た高度なデザインのフォルムを描く。
つま先でしか体重を支えられないギリギリの位置で静止する緊縛奴隷・・・無理強いなポージングにこそ “美” は宿(やど)る──古くから語られるこうした “鉄則” を体現する、まさに「芸術」と評しても遜色ない傑作中の “傑作” であった。

「緊縛はアートか?」という迷想的パラドックス

杉浦則夫 緊縛
杉浦則夫 緊縛

「S」の字に吊るされている愛しい女を(多少の物理的な距離を置いて)俯瞰(ふかん)で眺めながら・・・緊縛師Mは、ふと思索する。
「スケベなアートってヤツは本当にこの世に存在するものなのか? そもそも俺がやっていることはアートなんだろうか…?」
「緊縛」に携わる者が必ず幾度かは対峙しなければならないであろう「エロスとアートとの両立」「緊縛の芸術性」といった普遍的なテーマである。
当然ながら・・・その「正解」には、どんなに厳格なかたちで自問自答したところで、辿(たど)り着くことができない。突き詰めれば突き詰めるほどに “迷想” のパラドックスへと足を踏み入れてしまうのだ。

「鑑賞者」の存在無くして「芸術」は成立しない?

杉浦則夫 緊縛
杉浦則夫 緊縛

「芸術」とは「表現者や表現物と鑑賞者が相互に作用し合い、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動のこと」と、辞書にはある。
となれば──縛り手と受け手の二人のみで完結してしまう類(たぐい)の「緊縛」は「芸術として成立しない」といった解釈もできる。
たとえば「写真家」という第三者の “介入” によって、ようやく「緊縛」はアートへと昇華するもの・・・なのかもしれない。

「緊縛」と「表現」…そして「芸術」

杉浦則夫 緊縛
杉浦則夫 緊縛

では、「表現」とは一体なんなんだろう。「感情・思想・意思などを形として残したり、態度や言語で示したりすること」と、辞書にはある。
ということは──「緊縛」というのは「表現」でこそあれ、「鑑賞者」を想定しないかぎり「芸術」と呼ぶべきではない、とどのつまりがそういうことなのか・・・?
パシャリパシャリ・・・というシャッター音が相(あい)も変わらずメトロノームみたいに止まることなく、正確に時を刻む。S字に吊り緊縛された愛しい女が爪先だけで不安定なバランスを保ちながら、麻縄で彩(いろど)られた身をくねらせている・・・。

ロジックを超えた本能的な衝動

杉浦則夫 緊縛
杉浦則夫 緊縛

束縛によって不自由さを強(し)いられながらも、従順に “おねだり” する早苗のはだけた長襦袢の胸元に視線をフォーカスした途端(とたん)・・・逡巡(しゅんじゅん)によって一時(いちじ)は萎(しぼ)みかけていた緊縛師Mのイチモツが一気に熱(いき)り勃ち、「完全復活」を遂げる。
「緊縛とはエロティシズムを追求する “手段” の一つでしかないのではないか」「様式美として “目的化” した緊縛こそがアートなのかもしれない」・・・さまざまな “仮説” がMの頭に走馬灯のようによぎる。でも、もう考えることが面倒になってきた。
「俺が一番の “鑑賞者” ──それでいいじゃないか! 緊縛がアートだろうがアートじゃなかろうが…そんなことはどうだっていいじゃないか!!」

緊縛とエロスに続く

緊縛師 HIBIKI
モデル あぃ
写真  杉浦則夫

HIBIKI X https://x.com/HIBIKINAWA?t=S_e8JNxHmLv73ryFxoa8xA&s=03
あぃ  X  https://x.com/a1_mii?t=bXMF3c3dR2XEXKR5ooKIJA&s=03

 

撮影場所 Kスタジオ

東京都新宿区新宿2-15-11信田ビル5階

 

#緊縛
#緊縛写真
#Kスタジオ
#杉浦則夫

この記事を見た人はこんな記事も見てます